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2017年03月10日

“光速で稼ぐ男” 重田康光

 

サマリー

・重田康光は、光通信の創業者。1996年に市場最年少で上場し、一躍時代の寵児と持て栄された

・1999年時点ではフォーブスの個人資産ランキング5位につける大富豪であったが、その後会社の転落と共に個人資産も転落。名声も失った

・その後、ひっそりと光通信を立て直し、メディアの露出は少ないものの陰ながら復活をとげている

 

 

光通信の創業

重田康光は、1988年2月に株式会社光通信を創業しました。

当初は第二電電(現KDDI)の契約取次ぎの代理店として事業をスタートさせますが、事業の中心を携帯販売事業へ変更させ、急激に企業を成長させます。1996年、史上最年少の31歳で株式を店頭公開し、1999年、当時史上最年少の34歳で東京証券取引所第一部に上場を成し遂げ、光通信は一躍注目されました。

当時の重田は、正に時代の寵児。1999年には、米国経済誌『フォーブス』に250億ドル(約2兆6,000億円)の個人資産を持つ世界第5位の富豪として紹介されました。日本人が、総資産額でビルゲイツと並んだのですからこれは驚きです。

また、当時のITバブルを牽引し、1999年5月31日、株式会社ソフトバンクの社外取締役に就任。その後も、重田が保有する株の時価総額は増え続け、7兆円にまで膨れ上がりました。

 

 

最盛期、そして転落へ

そんな重田の上り調子が一変したのは、株価が最高値を更新した直後の2000年3月。『文藝春秋』の報道によって、携帯キャリアから支払われるインセンティブを受け取るため、大量の携帯電話架空契約を行っていたという、所謂「寝かせ」が発覚。加えて、疑惑を釈明するために開いた会見で「業績は順調で、決算は予定通りに達成できる」とコメントをするものの2週間後の中間決算発表で従来予想の60億円黒字から130億円赤字に転落を発表。最高値24万円だった株価は3,600円台株価に急落しました。最高値の、67分の1の価格です。

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この時の「20営業日連続ストップ安」という記録は現在でも破られておらず、語りぐさとなっています。

無論、連日重田をカリスマとして報道してきたメディアは手のひらを返したように彼を痛烈にバッシング、世間的な重田へのイメージはここで終わっているのではないでしょうか。

 

 

復活

重田は2000年以降は事業再建に注力し、シャープの複写機販売・リースを中核とする事業転換を行います。2003年に代表取締役会長兼CEOに就任、2004年には黒字化を実現し、事業再建を成功させました。2014年には、米国経済誌『フォーブス』に長者番付ランキングで世界663位、国内11位の大富豪に順位を回復しており、重田の復活劇は、客観的にみて成功を収めていると言えます。

 

 

まとめ

PER・PBRの観点から見ると、現在の株価が適正であり、やはり上場時の6万円、そして最高値の24万円という株価は異常値であったことが分かります。事業の勢いや企業の話題性により、株価が本質的な価値から大きく乖離することがあるという典型的な例であると思います。

 

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