資産運用 Lab.

第九章 沈没する投資銀行(後編)

要約

 

モルガン・スタンレー炎上

7月前半、モルガン・スタンレーが初めて目を覚ますときがきた。ドイツ銀行のグレッグ・リップマンとその上司から、ハーウィー・ハブラーとその上司に電話会議が持ちかけられ、その会議で、ハブラーがドイツ銀行のCDOデスクに売った40億ドル分のCDSがドイツ銀行に有利な方に動いたことが告げられた。ついては、本日中にドイツ銀行宛てに12億ドルを送金していただけないか、と。

それは始まりに過ぎず、数ヶ月後、モルガン・スタンレーのCEOとウォール街のアナリストたちの電話会議で決着がつくまで、債券価格の下降は止まらなかった。

債務不履行が増え、債券全般が値崩れを起こし、債券で構成されたCDOも後に続いた。

最初から最後まで、ドイツ銀行の債務回収担当者は、モルガン・スタンレーのトレーダーたちが自らのトレードについて、思い違いをしているという感触を拭えなかった。言い繕ったり、強弁したりしているわけではなく、本当にサブプライムCDOの本質を理解しきれないのだ。

グレッグ・リップマンは、モルガン・スタンレーが1ドルにつき約100セントで参入したトレードから、7セントの価格で降りることを認めた。ハブラーが積み上げた持ち高のうちの40億ドル分が、約37億ドル分の損失で決着したわけだ。

このころには、リップマンとハブラーが言葉を交わすことはなかった。ハブラーはもうモルガン・スタンレーの行員ではなくなっていた。

ハブラーが残していった損失額は、モルガン・スタンレーの役員会で90億ドル強と報告されている。ウォール街史上、飛び抜けて最大の損失額だったが、この後、ほかの投資銀行も次々とそれ以上の、まさに桁外れの損失を出すことになる。

それはいずれも、サブプライム・モーゲージ・ローン時代ならではの壮大な愚挙の彩りを帯びていた。

 

 

パブの片隅で

ついにその瞬間が訪れた。サブプライム・モーゲージのリスクの最後の買い手が買うのをやめたのだ。2007年8月1日、ベアー・スターンズの株主たちは、初めて訴訟を起こした。

その波紋を受けて慄然としたのが、コーンォール・キャピタルの3人だった。

彼らのCDSは、主にベアー・スターンズから買ったものであり、ベアー・スターンズが倒産すると、賭けの支払いが行われなくなるのではないかという危惧が募った。

コーンウォール・キャピタルは、20種の劣等CDOに対するCDSを保有していたが、それぞれ劣等のあり方が異なるので、自分たちの正確な立場を読み取るのは難しかった。一つだけはっきりしていたのは、コーンウォールの大穴狙いの賭けが、もはや大穴ではなくなったということだった。

パニックに陥っている市場は、サブプライム・モーゲージ債関連なら、どんなものに対する保険だろうと、買いたくて仕方がないように見えた。

目算が狂ってきて、コーンウォールは初めて、市場の回復を促すような出来事(例えば、アメリカ政府の介入によって、すべてのサブプライム・モーゲージが保証されるようなこと)があった場合、かなりの大金を失いそうな立場に立たされていた。ベアー・スターンズが潰れれば、コーンウォールは全てを失うことになる。

3人は慌てて身を守ろうとした。せっせと買い集めてきて、にわかに市場性を獲得しつつある保険証券を、今度は売りさばかなくてはならなかった。

 

そういうわけで、ベン・ホケットは否応なく、イングランドのデヴォン州エクスマスの町にある〈パウダー・モンキー〉というパブの店内に居座って、中二階(メザニン)サブプライムCDOのダブルAのトランシュに対するCDS 2億500万ドル分の買い手を探すことになった。

ベンとの取引に色気を示してきたのは、ただ一行、UBSだけだった。0.5%の経費で手にいれた保険証券に対し、UBSは一括払いで30%の提示をしてきた。つまり、コーンウォールが約100万ドルで購入したCDS 2億500万ドル分が、いきなり6,000万ドル強の価値を持ったということだ。

4年半前、資本金11万ドルから始めたコーンウォール・キャピタルは、100万ドルの賭けで、8,000万ドル以上の純益を上げた。

 

 

好奇心の死

2007年8月31日、マイケル・バーリは自分のCDSを本格的に解放し始めた。顧客の投資家たちは、預けた金を引き出せるようになり、そこには投資した時の倍以上の金があった。その四半期が終わり、バーリは自分のファンドの増益が100%を超えたことを報告した。

それでも、顧客の投資家たちはうんともすんとも言ってこなかった。

2006年の大部分と2007年の前半を、マイケル・バーリは誰とも分かち合えない悪夢の中で過ごした。他人からの誤解や排斥によって、バーリが受けた心の傷は、アスペルガーということと相まって、急速にバーリから金融への興味を奪い取ってしまった。

金融市場に対する興味が急速にしぼんだとき、バーリは初めてギターを買った。別にギターが弾けるわけでも音楽の才もなく、弾きたいとさえ思っていなかったが、ただ単に、そのギターの材料に使われている木の種類や真空管とアンプについてあらゆることを知る必要があると感じただけだった。

 

それから6ヶ月後、国際通貨基金が、アメリカに端を発するサブプライム関連資産の損失を1兆ドルと見積もることになる。ウォール街の各投資銀行はそれぞれに損失を被り、回避の手立てを何一つもたない。

今できるのは、被害の拡大する速さと、その規模を見定めることだけだった。

 

 

トリックスター>

世紀の空売り>

ライアーズ・ポーカー>


資産運用 Lab.

第九章 沈没する投資銀行(後編)

要約

 

モルガン・スタンレー炎上

7月前半、モルガン・スタンレーが初めて目を覚ますときがきた。ドイツ銀行のグレッグ・リップマンとその上司から、ハーウィー・ハブラーとその上司に電話会議が持ちかけられ、その会議で、ハブラーがドイツ銀行のCDOデスクに売った40億ドル分のCDSがドイツ銀行に有利な方に動いたことが告げられた。ついては、本日中にドイツ銀行宛てに12億ドルを送金していただけないか、と。

それは始まりに過ぎず、数ヶ月後、モルガン・スタンレーのCEOとウォール街のアナリストたちの電話会議で決着がつくまで、債券価格の下降は止まらなかった。

債務不履行が増え、債券全般が値崩れを起こし、債券で構成されたCDOも後に続いた。

最初から最後まで、ドイツ銀行の債務回収担当者は、モルガン・スタンレーのトレーダーたちが自らのトレードについて、思い違いをしているという感触を拭えなかった。言い繕ったり、強弁したりしているわけではなく、本当にサブプライムCDOの本質を理解しきれないのだ。

グレッグ・リップマンは、モルガン・スタンレーが1ドルにつき約100セントで参入したトレードから、7セントの価格で降りることを認めた。ハブラーが積み上げた持ち高のうちの40億ドル分が、約37億ドル分の損失で決着したわけだ。

このころには、リップマンとハブラーが言葉を交わすことはなかった。ハブラーはもうモルガン・スタンレーの行員ではなくなっていた。

ハブラーが残していった損失額は、モルガン・スタンレーの役員会で90億ドル強と報告されている。ウォール街史上、飛び抜けて最大の損失額だったが、この後、ほかの投資銀行も次々とそれ以上の、まさに桁外れの損失を出すことになる。

それはいずれも、サブプライム・モーゲージ・ローン時代ならではの壮大な愚挙の彩りを帯びていた。

 

 

パブの片隅で

ついにその瞬間が訪れた。サブプライム・モーゲージのリスクの最後の買い手が買うのをやめたのだ。2007年8月1日、ベアー・スターンズの株主たちは、初めて訴訟を起こした。

その波紋を受けて慄然としたのが、コーンォール・キャピタルの3人だった。

彼らのCDSは、主にベアー・スターンズから買ったものであり、ベアー・スターンズが倒産すると、賭けの支払いが行われなくなるのではないかという危惧が募った。

コーンウォール・キャピタルは、20種の劣等CDOに対するCDSを保有していたが、それぞれ劣等のあり方が異なるので、自分たちの正確な立場を読み取るのは難しかった。一つだけはっきりしていたのは、コーンウォールの大穴狙いの賭けが、もはや大穴ではなくなったということだった。

パニックに陥っている市場は、サブプライム・モーゲージ債関連なら、どんなものに対する保険だろうと、買いたくて仕方がないように見えた。

目算が狂ってきて、コーンウォールは初めて、市場の回復を促すような出来事(例えば、アメリカ政府の介入によって、すべてのサブプライム・モーゲージが保証されるようなこと)があった場合、かなりの大金を失いそうな立場に立たされていた。ベアー・スターンズが潰れれば、コーンウォールは全てを失うことになる。

3人は慌てて身を守ろうとした。せっせと買い集めてきて、にわかに市場性を獲得しつつある保険証券を、今度は売りさばかなくてはならなかった。

 

そういうわけで、ベン・ホケットは否応なく、イングランドのデヴォン州エクスマスの町にある〈パウダー・モンキー〉というパブの店内に居座って、中二階(メザニン)サブプライムCDOのダブルAのトランシュに対するCDS 2億500万ドル分の買い手を探すことになった。

ベンとの取引に色気を示してきたのは、ただ一行、UBSだけだった。0.5%の経費で手にいれた保険証券に対し、UBSは一括払いで30%の提示をしてきた。つまり、コーンウォールが約100万ドルで購入したCDS 2億500万ドル分が、いきなり6,000万ドル強の価値を持ったということだ。

4年半前、資本金11万ドルから始めたコーンウォール・キャピタルは、100万ドルの賭けで、8,000万ドル以上の純益を上げた。

 

 

好奇心の死

2007年8月31日、マイケル・バーリは自分のCDSを本格的に解放し始めた。顧客の投資家たちは、預けた金を引き出せるようになり、そこには投資した時の倍以上の金があった。その四半期が終わり、バーリは自分のファンドの増益が100%を超えたことを報告した。

それでも、顧客の投資家たちはうんともすんとも言ってこなかった。

2006年の大部分と2007年の前半を、マイケル・バーリは誰とも分かち合えない悪夢の中で過ごした。他人からの誤解や排斥によって、バーリが受けた心の傷は、アスペルガーということと相まって、急速にバーリから金融への興味を奪い取ってしまった。

金融市場に対する興味が急速にしぼんだとき、バーリは初めてギターを買った。別にギターが弾けるわけでも音楽の才もなく、弾きたいとさえ思っていなかったが、ただ単に、そのギターの材料に使われている木の種類や真空管とアンプについてあらゆることを知る必要があると感じただけだった。

 

それから6ヶ月後、国際通貨基金が、アメリカに端を発するサブプライム関連資産の損失を1兆ドルと見積もることになる。ウォール街の各投資銀行はそれぞれに損失を被り、回避の手立てを何一つもたない。

今できるのは、被害の拡大する速さと、その規模を見定めることだけだった。