資産運用 Lab.

第八章 長い静寂

ローンの債務不履行件数が記録的に増大したにもかかわらず、CDSは最安値を更新、バーリは投資家たちに責められる。が、やがてその「静寂」を破る鐘の音が…

 

 

要約

 

なぜ市場は動かないのか

バーリは2005年に組まれたローンに基づく大量の最劣等のサブプライム・モーゲージ債に掛かった保険を買っていた。多くの人間は2005年に組まれたローンは2006年に組まれたローンよりも安全性が高いと考えており、その保険はあまり人気のある商品ではなかった。

しかし、バーリは独自に計算を行い、この評価に対抗しようとした。このローンプールは2005年の一般的なサブプライム取引に比べて、焦げつく確率が2倍近く、担保権が行使される確率が劣るのは確かだが、2005年のローンの質が悪いことには変わりないし、金利の更改期日も2006年のものより早く訪れる。つまり、バーリはショートする対象としてうってつけの住宅所有者を選んでいた。

 

バーリは投資銀行による市場管理術に一つのパターンを読み取った。それは、住宅市場やアメリカ経済に関するよいニュースはすべてサイオン・キャピタルに担保を要求する口実として利用し、悪いニュースは、すべてバーリの賭けとは無関係なものとして黙殺するというやり方だった。

投資銀行がバーリの賭けの成功を認めようとしなかったのは、自分たちがその賭けの相手方だったからだ。

2006年4月、すでにバーリはサブプライム・モーゲージ債に掛けた保険を買い終えており、5億5,500万ドルのポートフォリオの中で、19億ドルを注ぎ込んでいた。

 

一部の証券の相場がどれだけ嘘で取り繕われていようとも、最終的には論理が市場を律することを知っていたバーリは一切心配をしていなかった。しかし、投資家はそうではなかった。

彼らは市場と距離をおくことができず、表面的な刺激に反応し、バーリにもその狂気に従うことを強制した。

「このポジションで金を失い続ける理由を教えてもらえませんか?」と。

マイケル・バーリはウォール街の悪役にされつつあった。内部文書のつもりだった顧客への四半期報告書の内容が、報道機関に筒抜けになっていた。

 

少し人と変わった個人的な嗜好(同じTシャツと半ズボンを履き続け、腕時計をせずに、仕事中にヘヴィメタル・ロックを大音量で聴くこと)も、物事がうまくいっている間は多くの人が許容してくれていた。

でも、物事がうまくいかなくなると、それが不適格とか情緒不安定とかの兆候として扱われた。それは従業員や仕事仲間の間でも同じだった。

 

 

投資銀行と連絡がとれなくなる

ラスヴェガスの大会のあと、市場は下落し、それから5月末まで回復基調にあった。

コーン・ウォール・キャピタルのチャーリー・レドリーの目にはアメリカの金融システムが投資銀行と格付け機関と規制当局の共謀によって、システムごと腐敗しているように映った。

フロントポイント・パートナーズのスティーヴ・アイズマンの目には、市場はもっぱら愚劣なものとして映った。

マイケル・バーリの目には、サブプライム・モーゲージ市場がますます一握りのサブプライム債トレーディング・デスクによる壮大な詐欺の現場と化しているように映った。

 

やがて、変化が訪れたが、初めのうちはその実態がなかなか掴めなかった。6月14日、事実上ベアー・スターンズの経営下にあったサブプライム・モーゲージ・ヘッジファンド2社が倒産する。それから2週間のうちに、上場しているトリプルBのサブプライム・モーゲージ債の指数が20%近く下がった。

ちょうどその頃、バーリが最も多額の取引を行っていたゴールドマン・サックスの様子がおかしくなった。バーリを担当しているセールスウーマンが姿を消し、電話やメールに応答しなくなった。やっと繋がったのは翌週月曜日の遅い時間で、それも“留守にしています”というものだった。

「それは、市場がこちらの思い通りに動き始めたときに、決まって現れる兆候です。取引先の人間が体調を悪くしたり、特別な理由もなく休んだりします」と、バーリは書いている。

 

投資銀行はへばりつつあった。全行がそうだった。ゴールドマン・サックスが月末にバーリの不利になるようにトレードを動かさなかったのは、この2年間で初めてのことだった。バーリはメモにこう書いている。

「投資銀行が“初めて”、的確に値を動かしてきた。自分たちもトレードの当時者になったということだろう」

市場はようやく、自らの機能障害に下された診断を受け入れようとしていた。

 

市場が急展開を始めた。今こそまさに2005年夏に顧客の投資家たちに告げた時機、ただそれを持っていればいいというその時機だった。7,500億ドル分の劣悪モーゲージが釣り(ティザー)金利から、もっと高い新たな金利への更改期日を迎えつつあった。

ウォール街の至るところで、サブプライム・モーゲージ債をロングしていたトレーダーたちが先を争って自分の持ち高を売ろうと、あるいはその持ち高に対する保険を買おうと躍起になっていた。

マイケル・バーリのCDSがにわかに時代の最先端を行くものになっていた。

 

7月の終わりになると、付け値はバーリの有利な方へと迅速に動くようになった。そして、バーリは雑誌や新聞で自分より1年遅れで同じトレードを始めたジョン・ポールスンらが天才と褒め称えられているのを目にした。ブルームバーグの記事によると、大手投資銀行で債券トレーダーの地位にあって、この惨事の到来を見抜いていたのは、グレッグ・リップマンだけということだった。

ブルームバーグは、カリフォルニア州のオフィスにたった一人で坐っていた男を見落としたのだ。

マイケル・バーリは、その記事のコピーにメモを添付して、メールで周囲に配信した。「グレッグ・リップマンは要するに私の案をマネて実行した人物だ。賞賛に値する」

バーリの顧客、金を預けていた投資家たちは、何も言わなかった。

 

 

トリックスター>

世紀の空売り>

ライアーズ・ポーカー>


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第八章 長い静寂

ローンの債務不履行件数が記録的に増大したにもかかわらず、CDSは最安値を更新、バーリは投資家たちに責められる。が、やがてその「静寂」を破る鐘の音が…

 

 

要約

 

なぜ市場は動かないのか

バーリは2005年に組まれたローンに基づく大量の最劣等のサブプライム・モーゲージ債に掛かった保険を買っていた。多くの人間は2005年に組まれたローンは2006年に組まれたローンよりも安全性が高いと考えており、その保険はあまり人気のある商品ではなかった。

しかし、バーリは独自に計算を行い、この評価に対抗しようとした。このローンプールは2005年の一般的なサブプライム取引に比べて、焦げつく確率が2倍近く、担保権が行使される確率が劣るのは確かだが、2005年のローンの質が悪いことには変わりないし、金利の更改期日も2006年のものより早く訪れる。つまり、バーリはショートする対象としてうってつけの住宅所有者を選んでいた。

 

バーリは投資銀行による市場管理術に一つのパターンを読み取った。それは、住宅市場やアメリカ経済に関するよいニュースはすべてサイオン・キャピタルに担保を要求する口実として利用し、悪いニュースは、すべてバーリの賭けとは無関係なものとして黙殺するというやり方だった。

投資銀行がバーリの賭けの成功を認めようとしなかったのは、自分たちがその賭けの相手方だったからだ。

2006年4月、すでにバーリはサブプライム・モーゲージ債に掛けた保険を買い終えており、5億5,500万ドルのポートフォリオの中で、19億ドルを注ぎ込んでいた。

 

一部の証券の相場がどれだけ嘘で取り繕われていようとも、最終的には論理が市場を律することを知っていたバーリは一切心配をしていなかった。しかし、投資家はそうではなかった。

彼らは市場と距離をおくことができず、表面的な刺激に反応し、バーリにもその狂気に従うことを強制した。

「このポジションで金を失い続ける理由を教えてもらえませんか?」と。

マイケル・バーリはウォール街の悪役にされつつあった。内部文書のつもりだった顧客への四半期報告書の内容が、報道機関に筒抜けになっていた。

 

少し人と変わった個人的な嗜好(同じTシャツと半ズボンを履き続け、腕時計をせずに、仕事中にヘヴィメタル・ロックを大音量で聴くこと)も、物事がうまくいっている間は多くの人が許容してくれていた。

でも、物事がうまくいかなくなると、それが不適格とか情緒不安定とかの兆候として扱われた。それは従業員や仕事仲間の間でも同じだった。

 

 

投資銀行と連絡がとれなくなる

ラスヴェガスの大会のあと、市場は下落し、それから5月末まで回復基調にあった。

コーン・ウォール・キャピタルのチャーリー・レドリーの目にはアメリカの金融システムが投資銀行と格付け機関と規制当局の共謀によって、システムごと腐敗しているように映った。

フロントポイント・パートナーズのスティーヴ・アイズマンの目には、市場はもっぱら愚劣なものとして映った。

マイケル・バーリの目には、サブプライム・モーゲージ市場がますます一握りのサブプライム債トレーディング・デスクによる壮大な詐欺の現場と化しているように映った。

 

やがて、変化が訪れたが、初めのうちはその実態がなかなか掴めなかった。6月14日、事実上ベアー・スターンズの経営下にあったサブプライム・モーゲージ・ヘッジファンド2社が倒産する。それから2週間のうちに、上場しているトリプルBのサブプライム・モーゲージ債の指数が20%近く下がった。

ちょうどその頃、バーリが最も多額の取引を行っていたゴールドマン・サックスの様子がおかしくなった。バーリを担当しているセールスウーマンが姿を消し、電話やメールに応答しなくなった。やっと繋がったのは翌週月曜日の遅い時間で、それも“留守にしています”というものだった。

「それは、市場がこちらの思い通りに動き始めたときに、決まって現れる兆候です。取引先の人間が体調を悪くしたり、特別な理由もなく休んだりします」と、バーリは書いている。

 

投資銀行はへばりつつあった。全行がそうだった。ゴールドマン・サックスが月末にバーリの不利になるようにトレードを動かさなかったのは、この2年間で初めてのことだった。バーリはメモにこう書いている。

「投資銀行が“初めて”、的確に値を動かしてきた。自分たちもトレードの当時者になったということだろう」

市場はようやく、自らの機能障害に下された診断を受け入れようとしていた。

 

市場が急展開を始めた。今こそまさに2005年夏に顧客の投資家たちに告げた時機、ただそれを持っていればいいというその時機だった。7,500億ドル分の劣悪モーゲージが釣り(ティザー)金利から、もっと高い新たな金利への更改期日を迎えつつあった。

ウォール街の至るところで、サブプライム・モーゲージ債をロングしていたトレーダーたちが先を争って自分の持ち高を売ろうと、あるいはその持ち高に対する保険を買おうと躍起になっていた。

マイケル・バーリのCDSがにわかに時代の最先端を行くものになっていた。

 

7月の終わりになると、付け値はバーリの有利な方へと迅速に動くようになった。そして、バーリは雑誌や新聞で自分より1年遅れで同じトレードを始めたジョン・ポールスンらが天才と褒め称えられているのを目にした。ブルームバーグの記事によると、大手投資銀行で債券トレーダーの地位にあって、この惨事の到来を見抜いていたのは、グレッグ・リップマンだけということだった。

ブルームバーグは、カリフォルニア州のオフィスにたった一人で坐っていた男を見落としたのだ。

マイケル・バーリは、その記事のコピーにメモを添付して、メールで周囲に配信した。「グレッグ・リップマンは要するに私の案をマネて実行した人物だ。賞賛に値する」

バーリの顧客、金を預けていた投資家たちは、何も言わなかった。