資産運用 Lab.

第7章 裏の顔

要約

この章では、2004年4月頃から2006年6月頃にかけての村上ファンドの手掛けた案件についての纏めが書かれている。

著者は、設立当初(~2004年の頭まで)には「この国の為に」という理念が見えた村上ファンドも、この頃から営利追求に傾倒し、“汚いやりかた”になっていったと指摘する。

 

※ 本章では、以下に挙げる各ディールにおいて、村上の“汚さ”や“ひどさ”を強調するような論調となっている。一方、ファンドとしての善悪を議論する為には、何を以て良いファンドとするのかという前提となる議論は必須であり、これがすっぽり抜け落ちていることで、著者の持つネガティブな評価が極めて曖昧で感情的なものであるという印象を与える。例えば、投資先の社長に嫌われてでもファンドのお客さんの為に利益をあげること、これを是とするか否か。それらの議論無く、村上ファンドを様々な角度から漠然と非難する構成に、管理人は疑問を感じた。

加えて、著者の挙げる根拠は、随所で客観性に欠けるものが見受けられる。「恐らくこうだろう」、「こう考えられるのではないか」。著者がジャーナリストである以上は読み手の感情をかき立てることに配慮している点、また著者が個人的にこの事件に強い思入れを持っているであろうこと等は伝わってくるものの、少なくとも論理性/妥当性という意味では余りにもお粗末な内容)

 

 

ジャック・ホールディングス

ジャック・ホールディングス(旧名)は、村上の長期保有先。2001年に株の保有を開始し、2001年12月6日には10%を超え、2002年12月20日には17.10%、そして2003年12月25日には20.32%まで比率を高めている。

尚、売り抜いた期間は、2004年の末頃からであり、2004年11月には13.74%まで比率を下げ、2005年3月には5.6%、そして2005年5月31日の段階では全て売却している。

実はこの売却の期間がグレーであると著者は指摘。

ジャック・ホールディングスは2004年11月19日に、発行済み株式総数の約71%、1,063万株にも及ぶ大量の第三者割当増資を行った。このうち1,000万株を、テクノファンドと呼ばれるファンドが引き受けた。そしてその翌営業日である11月22日、テクノファンドは、引き受けた1,000万株を、そのままの価格で個人投資家や他のファンドなど38の人や組織に全て売り捌いた。

ジャック・ホールディングスは、「テクノファンドの新株引き受けによりテクノファンドが一時的に筆頭株主になった後、この内の一部を売った為、村上ファンドが筆頭株主になった」旨を2004年11月に発表。

しかし、「テクノファンドが全ての株式を売却した」事実については、東証の「投資判断に重要な影響を与えるインサイダー情報」として即時開示が求められている適時開示資料ではなかったため、ジャック・ホールディングスは一般公開をしなかった。

つまり、この2004年11月時点で、一般投資家達は、テクノファンドが全ての株を一瞬にして全て売り捌いていたことを知らなかった。その後、2005年2月17日になってようやくジャック・ホールディングスは「テクノファンドが全ての株式を売却していた」旨を発表。

複雑ではあるが、村上ファンドは、増資発表によって株価が上がった2004年11月から、テクノファンドの株式全売りが発表されるまでの間に、自分たちの持ち分を大量に売り捌き、大きく儲けたのである。

 

 

大阪証券取引所(以下、大証)

2005年4月11日に大量保有報告書により大証株取得を公表。この段階で、発行済株式に対して9.98%を取得していた。2005年4月26日に、村上ファンドは配当性向100%、年間2万円という大幅な増配を求める株主提案を発表。村上ファンドの影に怯えた大証は、2005年の3月と5月の2度に渡って配当予想を上方修正した。しかし、それでも株価の反応は鈍かった。

すると、村上は2005年5月の講演会で、「大証の対応がいい加減であれば社長の交代を考える」等、過激な発言をする。こうした圧力に屈する形で、2005年6月には大証が社長米田を含め役員4人の報酬カットを発表。

2005年6月22日の株主総会では更に「米田社長の話を聞いていると株価が下がりそうな気がする」等々責め立てる。2005年7月27日には大証が内部体制改革を発表。

これら村上の奮闘もあり、大証の株価はその後上昇。村上ファンドは2005年12月に全ての大証株を売り切り、大証に投資した30億円を1年間で60億円にした。

 

 

西武鉄道

村上ファンドが西武鉄道株を買い始めたのは2004年末頃。

名義貸し問題で上場廃止に追い込まれた西武鉄道は、メインパングのみずほコーポレート銀行主導で再生計画を進めていた。そこに、2005年2月4日、村上ファンドが突如登場。みずほの再生案に反対し、1株1,000円以上でのTOBを提案するなど村上ファンド独自の再生計画を発表した。

結局、みずほと村上の間でどちらが主導権を握るかの戦いが続いたが、2005年11月28日に、正式にみずほ主導で動くことが決定し惨敗。

 

 

新日本無線

2005年11月8日、日清紡が新日本無線のTOBを発表。これに対抗し村上ファンドも11月21日にTOBを開始。新日本無線は日清紡の経営陣に賛同する方針を変えないことを公表し、2005年11月24日には村上ファンドに対して反対表明をした。これにより、村上ファンドのTOBは敵対的TOBとなった。

11月25日に日清紡がTOB価格を840円から880円に引き上げると、12月2日には村上ファンドは900円から950円まで引き上げた。価格で上回り、さらに取得予定の株式数に上限も設けない村上ファンドの方が条件で上回っていたことは明らか。しかし、12月7日には新日本無線が改めて村上ファンドのTOBに反対表明を示す。

結果、12月14日に日清紡のTOBが成功し、ここでも村上は惨敗に終わった。

しかし、村上のこの敵対的TOBは、「わざと負ける」巧妙な作戦だったと言われている。村上ファンドはその後、12月22日には、日清紡のTOBに応じた新日本無線の取締役を提訴する動きを見せた。「高い値段のオファーがあるのに、低い価格を提示した売却先を選ぶのは、株主に対して善管注意義務違反に当たる」として、村上は強く出る。TOBに負けるところまでは計算済みだったのかもしれない。村上は2006年4月14日の段階で新日本無線をこれまでの5.48%から7.31%まで買い増していた。

しかし、村上の逮捕騒動でこの案件はこれ以上前に進められなくなってしまった。2006年6月に村上ファンド幹部と日清紡との会談があり、村上ファンド側から、持ち分を買い取って欲しい旨の申し出があったそうだ。

 

トリックスター>

世紀の空売り>

ライアーズ・ポーカー>


資産運用 Lab.

第7章 裏の顔

要約

この章では、2004年4月頃から2006年6月頃にかけての村上ファンドの手掛けた案件についての纏めが書かれている。

著者は、設立当初(~2004年の頭まで)には「この国の為に」という理念が見えた村上ファンドも、この頃から営利追求に傾倒し、“汚いやりかた”になっていったと指摘する。

 

※ 本章では、以下に挙げる各ディールにおいて、村上の“汚さ”や“ひどさ”を強調するような論調となっている。一方、ファンドとしての善悪を議論する為には、何を以て良いファンドとするのかという前提となる議論は必須であり、これがすっぽり抜け落ちていることで、著者の持つネガティブな評価が極めて曖昧で感情的なものであるという印象を与える。例えば、投資先の社長に嫌われてでもファンドのお客さんの為に利益をあげること、これを是とするか否か。それらの議論無く、村上ファンドを様々な角度から漠然と非難する構成に、管理人は疑問を感じた。

加えて、著者の挙げる根拠は、随所で客観性に欠けるものが見受けられる。「恐らくこうだろう」、「こう考えられるのではないか」。著者がジャーナリストである以上は読み手の感情をかき立てることに配慮している点、また著者が個人的にこの事件に強い思入れを持っているであろうこと等は伝わってくるものの、少なくとも論理性/妥当性という意味では余りにもお粗末な内容)

 

 

ジャック・ホールディングス

ジャック・ホールディングス(旧名)は、村上の長期保有先。2001年に株の保有を開始し、2001年12月6日には10%を超え、2002年12月20日には17.10%、そして2003年12月25日には20.32%まで比率を高めている。

尚、売り抜いた期間は、2004年の末頃からであり、2004年11月には13.74%まで比率を下げ、2005年3月には5.6%、そして2005年5月31日の段階では全て売却している。

実はこの売却の期間がグレーであると著者は指摘。

ジャック・ホールディングスは2004年11月19日に、発行済み株式総数の約71%、1,063万株にも及ぶ大量の第三者割当増資を行った。このうち1,000万株を、テクノファンドと呼ばれるファンドが引き受けた。そしてその翌営業日である11月22日、テクノファンドは、引き受けた1,000万株を、そのままの価格で個人投資家や他のファンドなど38の人や組織に全て売り捌いた。

ジャック・ホールディングスは、「テクノファンドの新株引き受けによりテクノファンドが一時的に筆頭株主になった後、この内の一部を売った為、村上ファンドが筆頭株主になった」旨を2004年11月に発表。

しかし、「テクノファンドが全ての株式を売却した」事実については、東証の「投資判断に重要な影響を与えるインサイダー情報」として即時開示が求められている適時開示資料ではなかったため、ジャック・ホールディングスは一般公開をしなかった。

つまり、この2004年11月時点で、一般投資家達は、テクノファンドが全ての株を一瞬にして全て売り捌いていたことを知らなかった。その後、2005年2月17日になってようやくジャック・ホールディングスは「テクノファンドが全ての株式を売却していた」旨を発表。

複雑ではあるが、村上ファンドは、増資発表によって株価が上がった2004年11月から、テクノファンドの株式全売りが発表されるまでの間に、自分たちの持ち分を大量に売り捌き、大きく儲けたのである。

 

 

大阪証券取引所(以下、大証)

2005年4月11日に大量保有報告書により大証株取得を公表。この段階で、発行済株式に対して9.98%を取得していた。2005年4月26日に、村上ファンドは配当性向100%、年間2万円という大幅な増配を求める株主提案を発表。村上ファンドの影に怯えた大証は、2005年の3月と5月の2度に渡って配当予想を上方修正した。しかし、それでも株価の反応は鈍かった。

すると、村上は2005年5月の講演会で、「大証の対応がいい加減であれば社長の交代を考える」等、過激な発言をする。こうした圧力に屈する形で、2005年6月には大証が社長米田を含め役員4人の報酬カットを発表。

2005年6月22日の株主総会では更に「米田社長の話を聞いていると株価が下がりそうな気がする」等々責め立てる。2005年7月27日には大証が内部体制改革を発表。

これら村上の奮闘もあり、大証の株価はその後上昇。村上ファンドは2005年12月に全ての大証株を売り切り、大証に投資した30億円を1年間で60億円にした。

 

 

西武鉄道

村上ファンドが西武鉄道株を買い始めたのは2004年末頃。

名義貸し問題で上場廃止に追い込まれた西武鉄道は、メインパングのみずほコーポレート銀行主導で再生計画を進めていた。そこに、2005年2月4日、村上ファンドが突如登場。みずほの再生案に反対し、1株1,000円以上でのTOBを提案するなど村上ファンド独自の再生計画を発表した。

結局、みずほと村上の間でどちらが主導権を握るかの戦いが続いたが、2005年11月28日に、正式にみずほ主導で動くことが決定し惨敗。

 

 

新日本無線

2005年11月8日、日清紡が新日本無線のTOBを発表。これに対抗し村上ファンドも11月21日にTOBを開始。新日本無線は日清紡の経営陣に賛同する方針を変えないことを公表し、2005年11月24日には村上ファンドに対して反対表明をした。これにより、村上ファンドのTOBは敵対的TOBとなった。

11月25日に日清紡がTOB価格を840円から880円に引き上げると、12月2日には村上ファンドは900円から950円まで引き上げた。価格で上回り、さらに取得予定の株式数に上限も設けない村上ファンドの方が条件で上回っていたことは明らか。しかし、12月7日には新日本無線が改めて村上ファンドのTOBに反対表明を示す。

結果、12月14日に日清紡のTOBが成功し、ここでも村上は惨敗に終わった。

しかし、村上のこの敵対的TOBは、「わざと負ける」巧妙な作戦だったと言われている。村上ファンドはその後、12月22日には、日清紡のTOBに応じた新日本無線の取締役を提訴する動きを見せた。「高い値段のオファーがあるのに、低い価格を提示した売却先を選ぶのは、株主に対して善管注意義務違反に当たる」として、村上は強く出る。TOBに負けるところまでは計算済みだったのかもしれない。村上は2006年4月14日の段階で新日本無線をこれまでの5.48%から7.31%まで買い増していた。

しかし、村上の逮捕騒動でこの案件はこれ以上前に進められなくなってしまった。2006年6月に村上ファンド幹部と日清紡との会談があり、村上ファンド側から、持ち分を買い取って欲しい旨の申し出があったそうだ。